「私も社長になる!」事業継承した女性の活躍を見て奮起、 有限会社シャルレ石飛代理店 -前編-
前編は、シャルレの仕事を始めるまでの経緯や、親子で同じビジネスを行うことについての想いなどをお伺いしました。
前編は、シャルレの仕事を始めるまでの経緯や、親子で同じビジネスを行うことについての想いなどをお伺いしました。
目次
石飛さんがシャルレを知ったのは、小学校2年生のころ。母親がシャルレの仕事を始めたことがきっかけでした。
それまではランドセルを背負って帰宅すると、母がミシンを踏みながら内職をしている姿が日常の光景でした。ところがシャルレの仕事をはじめてからは、生活が変わりました。
石飛さんや1つ年下の妹が学校に行っている間のみ外での仕事をして、夕方には笑顔で「おかえり」と迎えてくれるようになったのです。
以前も母は家にて子どもたちを迎えてはくれましたが、忙しそうにしているのが印象的でした。
でも、シャルレを始めてからは、なんだか楽しそうなのです。
「夜には自然と『報告会』が始まって、家族で1日の出来事を話すのが日課でした。私も学校で嫌なことがあったら、その日のうちに全部話して、お母さんからアドバイスをもらっていましたね。」
母は決して人の悪口は言わず、他人と比べたりもしない、とても前向きな女性。
そのためか、多くの人に愛され仕事も順調でした。
「これまでジャージ姿だった母は、いつの間にかおしゃれを楽しむようになりました。母が夢だと言っていた、新車を購入する、2階建ての事務所を建てる、家を建てるなど、すべて叶えていきました。
そんな母の変化を間近で見ていたので、子どもながらに『夢は口にすれば叶うんだ』と信じるようになりました。母は楽しそうで、キラキラして見えました。」
親子というより同志のような感覚で母を応援していた石飛さん。授業参観にきれいな格好で現れる母の姿が、何より誇らしかったといいます。
「母が自由に仕事ができたのは、父がいつも応援してくれていたから。両親の姿を見て育ったからこそ、私も『いつか母を手伝いたい』と思うようになったんです。」
シャルレが身近だった石飛さん自身も、小学校2年のころからシャルレの下着を愛用していました。
友だちの家に泊まりに行った際に、下着を忘れ、シャルレ以外の下着を借りたこともありました。
「シャルレの下着に慣れていたので、違う下着ははじめてで違いに驚きました。そちらも触り心地はよかったのですが、私にはやさしい肌触りと着心地のシャルレがいいと思ったんです。」
のちに、自分の子どもたちにも使うようになったといいます。シャルレの心地よさは、母から子へ、そして孫へしっかりと受け継がれているようです。



お母様の初枝さんと共に
高校を卒業した石飛さんは、地元から1時間半ほど離れたCD印刷機メーカーに事務職員として就職。新築アパートでのひとり暮らしでしたが、立地がいいため家賃が高く生活が大変だったといいます。
しかし、このひとり暮らしの経験は、石飛さんにとっていい経験となりました。
「小さいころから母に『欲しいものは1週間待って、それでも欲しかったら自分で働いて買いなさい』と教えられてきました。お金の大切さを理解していたつもりでしたが、ひとり暮らしをすることで、生活費をやりくりしながら、家族への感謝をより強く感じられるようになりました。」
入社から約1年後、結婚を機に地元へ戻りました。子どものころから、良き相談相手である母の仕事をいつかは手伝いたいと思っていました。その思いを実現するため、母が経営するシャルレ石飛に事務員として入社しました。
「20歳で入社後すぐに、母の勧めで特約店の資格も取得しました。」
1年後には妹も入社。専務として父も加わり、家族一丸で会社を支えていきました。
「その後は18年間、母の会社で事務の仕事をしていくのですが、その間、さまざまなセミナーに参加させてもらいましたね。シャルレの仕事は子どもがいても働きやすいので、事務所に子連れで行くこともありました。3人の子どもを育てながらも、働き続けることができたのはこの環境のおかげでしたね。」

入社して18年経ったころ、石飛さんに転機が訪れます。
株式会社シャルレの社員の方から「会わせたい人がいる」と誘われ、
神戸で開かれた特約店セミナーに参加することになったのです。
そのセミナーの壇上で講演していたのは、母親の代理店を継いだ1つ年下の女性でした。
「母が外出中に電話注文を受けた経験があるなど、私の母がシャルレをしていた子どもとしての境遇もよく似ていました。違ったのは、彼女が代理店(社長)として堂々と講演をしていたこと。私は18年間、母のもとで事務をしてきたけれど、まだ一歩も踏み出せていませんでした。
社長として講演するその姿が格好よく映り、正直『私は何をやってきたのだろう』と思ってしまったんです。」
もともと体育会系で負けず嫌いの石飛さん。その心に火がつきました。
「このままでは嫌だ。母である石飛社長の娘ではなく、石飛留美という人間として認められたい。」
その日の帰り道、母に「私、代理店になる。」と宣言していました。

「できると思ったから、できる。根拠のない自信がありました。言ってしまった手前、やるしかありません。」
帰宅後、家族にも伝えると了承してくれました。
家族は協力的でした。
特に子どもたちは、小学校2、3年のころから「一緒にお仕事しよう」と声を掛け、
お米研ぎや洗濯、掃除などを手伝ってもらっていたため、3人とも家事ができるので心強かったそうです。
この自然と、楽しくお手伝いに導くすべは、母から学びました。
「母にしてもらってよかったことは、他の人にもするようにしていた」という石飛さん。それが結果的に、小さい頃から子どもたちが楽しく家事をお手伝いすることにつながり、家事ができる子になったのです。
特約店の資格は持っていましたが、ほとんど活動はしていません。ゼロからのスタートです。
しかし母を見て育った経験から「夢は言葉にすれば叶う」と知っていました。
周囲に「社長になる」と言ってまわりました。こうして、代理店を目指す生活が始まったのです。
代理店を目指す1年半は、想像以上に過酷でした。
まず「1日10万円の売上達成」を自分のなかで決め、動きだしました。特約店の仕事をしていなかったため、一緒に仕事をする仲間もいません。
「当時の私は、18年間の蓄積があったので何でも自分でできると思っていました。そのため、社長に素直に『教えてください』と言えず、つい反抗的な態度を取ってしまっていました。」
何度かの衝突の末、石飛さんは気持ちを切り替えて社長に「教えてください。」と素直に伝えたそうです。しかしその後も、親子でビジネスを行うからこその葛藤に悩んだといいます。
「私が代理店を目指すにあたり、母から『母と子ではなく、有限会社シャルレ石飛の石飛社長(母)と、石飛特約店である私・石飛留美という関係でいるべき』、『母と思っちゃいけん』と言われました。でも私にとって母は母。切り替えがうまくできず、素直に報告できなかったり、反抗的な態度を取ってしまったり……。
何度も泣いて、『どうして認めてくれないの』と叫んだこともありました。
母は、代理店になるまでの期間、一切、私を褒めませんでした。
裏では、妹に『留美が頑張ってるんよ』と伝えていたそうですけどね。」
しかし、突き放すだけではなくて、昔のお客さんのところに一緒に行って紹介してくれるなど、
支援もしてくれたといいます。
「子ども心に覚えていますが、母も代理店を目指していたときは必死でした。その姿を思い出して、私も頑張らなきゃと思いました。」
2014年4月10日、ついに念願の代理店に昇格。

「もう二度と戻りたくないくらい大変でしたが、その分、自信につながりました。
この仕事は、自分よりも先輩の方に、言いにくいことも伝えないといけない場面もあります。
きちんと伝わると、自信につながります。私にとって、貴重な経験となりました。」
シャルレの仕事は、商品をお客さまに届けるだけではなく、互いに成長できる仕事だと改めて感じたといいます。
「多くの人とのつながりがあってこそ、私はここに立てていると実感できたので、
本当にチャレンジしてよかったですね。」
代理店となり、夢だった女性経営者に。さらにこのころ、家も購入します。146坪の広い家で、玄関が2つあったため、事務所と自宅として利用するのに適した物件でした。
絶好調の石飛さんですが、すぐに悩むことになります。
母が社長を務める有限会社シャルレ石飛と、自分の代理店業。
別々に活動するか、それとも一緒の会社で活動するのか。
「そもそも私は『母の仕事を手伝いたい』という思いで、シャルレをはじめました。
それならば『社長』の肩書きよりも、その思いを大切にすべきでは?」
そう気づき、母と一緒になって活動することを決意します。
小学生のころから抱いていた夢「母の仕事を手伝いたい。」を大切にした、石飛さん。
では「社長になる」という夢は、どうなったのでしょうか。
その答えは、後半で語られます。
後編では、石飛さんに訪れた大きな危機、そして社長になるという、
もう1つの夢の結末についてお届けします。
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